Grace
Map
Worship
Ministry
Gospel
Staff
Audio/Video
Prayer Update
Teaching
Testimony
Church 0428-30-1604
Fax 0428-30-1571
Home

Tune in to Grace Radio 24 hours a day!

 

John 4 "Living Water"


イエスがヨハネよりも弟子をつくって、バプテスマを授けていることがパリサイ人の耳にはいった。それを主が知られたとき−イエスご自身はバプテスマを授けておられたのではなく、弟子たちであったが、主はユダヤをさって、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。それで主は、ヤコブがその子ヨセフに与えられた地所に近いスカルというサマリヤの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は6時ごろであった。ひとりの女が水をくみに来た。イエスは「わたしに水を飲ませてください。」と言われた。弟子たちは食物を買いに、町へ出かけていた。そこで、そのサマリヤの女は言った。「あなたはユダヤ人なのにどうしてサマリヤの私に、飲み水をお求めになるのですか。」−ユダヤ人はサマリヤ人とつきあいをしなかったからである。−イエスは答えて言われた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めていたこどでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」彼女は言った。「先生。あなたはくむ物をもっておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れなるのですか。あなたは、私たち先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」女はイエスに言った。「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

何が、そんなに何千年前に書かれたこの話が私たちを揺り動かすのでしょう。なぜ、私たちは、昔の時代や著者からの本を読んで、それでも、私たちのなかでこころが燃えているのでしょう。私たちにとって、場所はあまり聞きなれない名前かもしれない、そして、それらの抗争の原因は、現代の私たちにとって、たいした意味ではないのだが、それらは、いまだに、私たちにとっても変わらない何かを教えてくれる。私たちは皆、人間である。私たちは、同じ必要、失敗、私たち皆、神聖な似姿に創られたことによってつながっているのである。私たちが、これらの話を読むことは、重要である。なぜなら、私たちの世界は、急速にお互いをはなればなれにしてきている。 皆、平和や妥協や多様性を話すようになるが、私たちは、その聞こえがいい言葉の裏に隠された意味に気を付けなければならない。あるいみ、平和を保つことは、爆弾を落とすことを込めているように思える。妥協は、ある人が、完全な真理、あるいは、正しいこと、あるいは、間違ったこと言ってもそれは、偏屈なのである。そして、多様性は、単純に私たちは、どの人に対しても何も言ってはならないという意味である。なぜなら、それが、間違ったように取られるかもしれないからである。私たちの世界は、協調の名によってはなればなれになってきている。お互いの人種、政治、そして宗教のグループは、だれの邪魔もされないと決めた自分たちの要塞に、引っ込んでいる。

エルサレムとイエスのナザレの地元との間には、サマリヤという地域がある。サマリヤ人とユダヤ人は、神をどこで礼拝するかという長く続いている議論があった。数百年こえて、この議論は、反目となり、そして両方ともお互いに何も気にかけなくなった。ユダヤ人にとって、サマリヤ人は、汚れたものであり、そしてもちろん、サマリヤ人は、ユダヤ人を自己義念の気取り屋と見ていた。ほとんどのラビ(先生)は、サマリヤに入らず、彼らとかかわらないようにするために遠回りをしている。イエスも、事実、遠回りをすると思われていた。しかし、文では、イエスは、そこを通る必要があったと言っている。私たちは、しばしば、私たちを不快にさせるようなことを避けるために遠回りをすることがある。愛は、それを通る必要がある。社会は、あくまでも、現状で行くよう求められる。私たちは、世界が私たちのために決めるのではなくて、愛することを選ばなければならない。1960年代、アメリカ南部社会は、あらゆる公共のイベントで、黒人と白人の席を分けるようにさせた。初めから、ビリーグラハムは、向かう先々で、席は自由であるよう説教した。ある場所では、グラハム自身、クルセードが始まる前にロープをはずすようにしなければならなかった。もちろん、グラハムは、自分でそれらのロープを付けたのではなかった。彼は、そのことで社会を非難し、「それが、普通なんだ。」と言えたことができただろう。しかし、そのかわりに、愛を選び、ロープを引き裂いた。

イエスと彼の弟子たちが正午に井戸についたとき、彼らには、休憩が必要だった。弟子たちは、食べ物を買いに町に行き、そして、イエスは、井戸のかたわらで、腰をおろした。疲れた旅行団体を私と一緒に想像してみてください。その時代、道は、もちろんほこりっぽく、彼らは、たぶん井戸を見つけたことに喜んでいた。しかしながら、イエスは、水をくみ出せないことがわかって、いらだっていたにちがいない。彼は、水をくみ出すものがなかったのである。奇跡がおこるなんと完璧なときでしょう。だれも、見ておらず、どうして、簡単に水が飲める場所まで、水を井戸の上まで呼びかけることをしなかったのでしょう。しかし、イエスはしなかった。私は、イエスについて以前不思議におもったことがある。イエスがしなければならないことはただ、必要なときに奇跡を呼ぶことであるのに、どうやって、私のつらさ、弱さを分かってくれるのか。確かに、イエスは、できたであろう。しかし、聖書をよくみると、イエスは1度もしなかった。サタンが、石をパンに変えるように試みたときではなく、同様に、この乾いたときでもない。イエスが、十字架に付けられて、いつでも、天使をよんで救うことができたときでもない。イエスは、すべて、望んでそれらを経験したので、だれよりも私たちの苦しみを理解している。

その女は井戸でこのユダヤ人の男を見て驚いたにちがいない。彼女は、たぶん「彼は、不快で、私も不快、だから早く用事を済ませて、ここから立ち去ろう。」と、思ったであろう。それゆえ、彼女は、イエスが、「わたしに水を飲ませてください。」と言われたとき驚いたのである。彼女は答えた。「あなたはユダヤ人なのにどうしてサマリヤの私に、飲み水をお求めになるのですか。」ユダヤ人は、汚される汚いコップから飲み水を求めないのである。ユダヤ人は、女としゃべらない、なぜなら、女は彼を汚すからであり、ユダヤ人は、確かに同等な理由で、サマリヤ人と話さないのである。共通点があまり見られない二人を想像することは、難しい。彼らは、人種、宗教、性別においてかけ離れている。

しかし、イエスは、これらの架け橋となられた。何が、二人を最初の場所に導いたのか。水。彼らは、二人とも水を必要としていた。見回してみると、今日でも同じである。毎日、私たちは、人々とかかわっている。これらの人々の多く、私たちは、できれば、かかわりたくないのである。私たちは、仕事をするために彼らと、電車にのり、銀行で並び、昼食の時間に弁当を買う。私たちは、ヘッドフォンをつけ、あるいは、本を読み、何かをして彼らとかかわりをもたないようにしている。

私たちは、出来るかぎり話さず、良くて、私たちが考えなくてもいいような機械的なフレーズ、または、実物の人間とかかわらなくてもいいように自動機械をつくり出すのである。その究極は、もちろんインターネットである。それによって、私たちは、外に行かなくても買い物が出来る。それでも、どんなに私たちがっていても、私たちは、つながっているのである。それらの人々が朝、あなたと一緒に、電車にのっている理由は、彼らも、仕事に行かなければならないからである。皆、あなたと同じ事を心配しているのである。あなたの好きなレストランが混んでいる理由は、あなたと同じようにそれらの残りの人々は、おなかがすいているからである。私たちは、皆、人間である。私たちは、皆、同じものを必要としている。私たちの一人一人、水が必要で、食べ物が必要で、住まいや衣類がひつようで、そして、皆一人一人、神が必要なのである。

イエスは、その女に答えた。「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めていたこどでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 イエスは、彼らの共通点、水に乾いていることから始めている。しかし、イエスは、会話をすばやく彼女の神に対する必要に持っていった。私たちは、地球上のある人は、6人のほかの人たちぐらいしか離れていないとよく聞く。私たちは、言葉関連のゲームで、ひとつのものからあるかけ離れているものへなるべく少ないステップを踏もうとする。私が、牧師として習ったのは、完全にすべてのことは、ある意味、神とつながっているのである。私が、神はだれであるか、どんなに神が私たちを愛している説明している説教文を書いているとき、私は、子供のおもちゃから物理などをイラストとしてつかっている。見ればみるほど、物事は、すべて神を指している。私たちも例外ではない。事実、私たちは、神の似姿に想像されたので、私たちは、すべての中で顕著である。

私たちに関して、すべては神を指している。あるいは、私たちがどんなに神を必要としているかを現している。その女は、イエスに質問した。「その生ける水をどこから手にお入れなるのですか。」何が、イエス(また彼を知っている人たち)にとって、井戸に何度も何度もくみに来なければならない人たちと何が違うのでしょう。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」私たちと彼らの違いは、明白である。私たちには、彼らが持っていない、平和、愛、そして喜びといった源がある。彼らは、これらのことに関して、心に砂漠に囲まれた小さな幸せなオアシスみたいな−ポケットを見つけるだろう。彼らは、探すに探すが、私たちは、枯れることのない神の井戸を見つけた。私たちは、神を探す時間など必要がないのである。神は、私たちとともにあり、私たちの必要を満たしてくださる。人々がこの違いを知るのなら、彼らは、福音に、応えるであろう。彼らは、彼女とともに、「先生、私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」と言うでしょう。

イエスは彼女に言われた。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」女は答えていった。「私には、夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」女はいった。「先生。あなたは預言者だと思います。」私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことをしんじなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝しますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝するものは、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」女はイエスに言った。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」イエスは言われた。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

現在、世界の二つの最も重大な問題は、たぶん、あなたが考えていることではないであろう。わたしは、病的な細胞の核、あるいは、新しく発展している国々の核拡散の癌について考えているのではない。世界の温暖化、世界のテロについてでもない。現在の世界の2つのもっとも重大な問題は、個人の独立、人間の組織的な分離からきている。これらの問題は、孤独と混乱である。イエスは、その女に言った。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」その女が日中、他の女の人たちがいないときに、井戸に来たのには、理由があったことが判明する。この孤独な場所で彼女だけいたのには理由があったのである。彼女には、5人の夫がいて、今、一緒に住んでいる男は、彼女の夫ではなかったのである。彼女には、悪名があり、もちろん、どの女の人も彼女とかかわりたくはなかったのである。罪は、他の人々から私たちを離れさせ、そして、孤独は、さらなる罪へと導くのである。インターネットにおける第一の産業は、ポルノである。だれも本当の友達がいないという理由は、インターネットに費やしている時間が多いこと−が分からないまま、孤独な人々は、相手になる人がほしいということを満たしてくれる何かを探している。

この時、その女は、普通の男と話しているのではないことに気が付いた。彼女は、イエスが普通と違っていていたのを知っていた、そして彼女は、イエスが与えてくれるであろう何かを望んでいた。しかし、イエスが、彼女の罪の事柄を提起したとき、彼女は、その日の問題についての議論に先走った。これは、私たちの時代の第二番目の重大な問題である。私たちは、とても混乱している。私たちは、情報がありすぎて、どの情報が真実か知りえないのである。私たちは、コミュニケーションがたくさんあるが、少しの会話しかない。人が、友人や親戚を通じて、分かったという、そういう時代があった。 ニュースは、人々を通じて渡り、そして、それらの重要でない事項は忘れられていったのである。本当に重要な事項は誰にも忘れられないことであった。今では、紙、テレビ、ラジオ、そしてネットを通じて、ニュースを見る。そこには、とてつもない情報があり、だれにも理解できないのである。だれが、このリポートが他のよりも信頼性があると言うのであろう。イエスは、その女に言った。「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝しますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」混乱をとめる真の方法は、源泉にもどることである。 インターネットの問題のひとつは、電子メールをお互いに交わすことである。それは、とても無害に始まるが、そのうち、とてつもなく大きなものへ展開していく。ある電子メールでは、癌で死にかけている女の子に対する祈りをお願いすることであった。この電子メールは、世界中の誠実なクリスチャンから誠実なクリスチャンへと何度と渡った。しかしながら、最初の電子メールには、日付がなく、そして、家族にどうしても連絡がとれなく、祈ってくれた人たちにどうなったか連絡が取れないのであった。 私たちがわかるのは、その女の子がすでに危機から脱出、そして健康な生活を送っている、あるいは、彼女は、良いところへ行ってしまったかである。しかし、元へ戻る方法がなければだれがわかるのであろう。私は、これが、宗教の始まりであると確信している。物事は、渡り歩き、それ自身に命がやどり、ついには、それが信用おけるものかどうか、確認できないまでになっている。インターネットに関して、ある人は、このような自己存続の電子メールをやめる画期的な方法にたどり着いた。それが、信用おける元、目的、そして、結果がない限り、送らないことである。

井戸にいるその女は、礼拝について、混乱していた。イエスは、「救いはユダヤ人からくる、これが始まりです。」彼女に言われた。調べてもらえればわかることですが、キリスト教は、ある人間の想像から始まったことではないのです。神が初めから行っているすべての成就なのです。そして、イエスは、礼拝の目的を言った。どのように、どこでは、重要ではなく、まことによる礼拝者は、父を霊とまことによって礼拝する。イエスと無駄に葛藤しているうちに、(イエスは、彼女の言い訳に対して、忍耐をもって聞いていて)彼女に残されたことは、ある日彼らは、知るということを認めることであった。救世主が来られたときに、彼がすべてを説明してくれて、結論は達成されて、そして、混乱はもはやなくなるであろう。イエスは、彼女に言った。そして、今日、私たちに言われる。「あなたと話しているこのわたしがそれです。」


Copyright 1999 Jonathan Wilson
All Rights Reserved

What Do You Say?
I have a question... I want to receive Jesus Christ! I want to confess sin...
I need prayer... I want to come to church... I want to be a prayer partner