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John 5 "For This Reason"


その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。さて、エルサレムには、羊の門の近くにヘブル語でベテスダと呼ばれる池があって、5つの回廊がついていた。その中に大ぜいの病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者が伏せっていた。そこに、38年もの間、病気にかかっているひとがいた。イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」すると、その人はすぐに直って、床を取り上げて歩き出した。ところが、その日は安息日であった。そこでユダヤ人たちは、そのいやされた人に言った。「きょうは安息日だ。床を取り上げてはいけない。」(ヨハネの福音書 5章1−10節)

聖書をみるひとつの方法として、人生のマニュアルとしてである。事実、聖書はこの世の中を生きていくもっとも良い指示本である。ある人は、人生は、一発勝負と言いました。これは、もっともです。私たちの人生における大きなイベントは、準備するということは不可能なのです。突然、それらは、私たちに襲いかかり、しかも急速に。 私たちは、それがまさに大事なことが起こっているのだとわかる前に、恋に落ちたり、友人を作ったり、あるいは、私たちの身近にいる人たちを傷つけてしまうのである。私たちが知る前に、渡したちは、何か良いことをする機会を見逃してしまうのである。そして、2番目の最善策にとどまるのである。病人や足なえが、池のまわりでかき回される時間を待って集まっているように、私たちは、あることに足止めされているので、残りの人生が通り過ぎるのをゆるしてしまう。聖書は、人生の重要な事柄にたいする指示の最高の源泉である。それは、子供の育て方、友人関係の築き方、心からお互いに愛する方法、そして神を知る方法を教えてくれる。それは、様々な人生、仕事や遊び、病気や健康、逆行や成功、すべてについて何らか語っているのである。

しかし、このように聖書という優れた資源であっても、神の御心は何であるかということを知ることは、いまだに難しいのである。すべてが、スパッと切れている、あるいは、白黒はっきりしていないのである。それは、データベースにすべての規則を積み重ねていることによって、私たちが、状況の詳細を打ち込めば、何をすればいいのかという事が出てくる単純なものではないのである。確かに、イエスには、38年間も池の周りで待っていた誰も助けてやらない、かわいそうな男を治す権利はあった。だが、イエスがこの奇跡を行うやいなや批判が始まった。

しかし、その人は彼らに答えた。「私を直してくださった方が、「床を取り上げて歩け。」と言われたのです。」彼らは尋ねた。「取り上げて歩け。」と言った人はだれだ。」しかし、いやされた人は、それがだれであるか知らなかった。人が大ぜいそこにいる間に、イエスは立ち去られたからである。その後、イエスは宮の中で彼を見つけて言われた。「見なさい。あなたはよくなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」その人は行って、ユダヤ人たちに、自分を直してくれた方はイエスだと告げた。(ヨハネの福音書5章11−15節)

ユダヤ人は、聖書をルールブックとしてしまっていた。彼らにとって、安息日に仕事をしてはいけないと明確にした。それゆえ、彼らが、その男が床を上げているのを見たとき、彼らにとって、彼が間違っていることをしているのは明らかであった。その規則では、“仕事禁止”その男は働いていて、顕著であった。しかし、その男が規則を破ったのではなく、だれかが破るように言ったので、事態はもっと最悪となった。イエスは、自分自身が安息日に人を直して、律法を破っただけではなく、彼は、また同様に他の人に律法を破るように教えていたのである。だれがただしいのか。聖書に書かれてある言葉に従っているユダヤ人か、それとも、悲惨な男に、慰めや思いやりを見せたイエスか。もちろん、イエスが正しいのであった。なぜなら、神が間違えることはないのである。しかし、どのようにして私たちは、今日の状況で何が正しいか知ることができようか。私たちは、神の知恵の大切な源として聖書を見ている。だが、私たちは、律法による文字以上に見なければならない。私たちは、ユダヤ人が、聖書によれば、正しいことが、なぜ間違っていたのか知る必要がある。

このためにユダヤ人たちは、イエスを迫害した。イエスが安息日にこのようなことをしておられたからである。イエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「まことにまことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられること見て行う以外には、自分からは何事も行うことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行うのです。それは、父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。それは、あなたがたが驚き怪しむためです。父が死人を生かし、いのちをお与えになるように、子もまた、与えたいと思う者にいのちを与えます。また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。それは、すべての者が、父を敬うように子を敬うためです。子を敬わない者は、子を遣わした父をも敬いません。(ヨハネの福音書 5章16−23節)

そのユダヤ人たちは、聖書について精通していたが、彼らには、神の愛が欠けていた。第一コリント13章が、私たちに語っているように、私たちが、霊的な賜物や山をも動かす信仰があったとしても、愛がなければ、異言を話すことは、やかましいどらやシンバルに過ぎないと言っていると同様に、あなたは、愛のない聖書は親しみをもてないであろう。だが、それは、たぶん、教会が最も陥りやすい罠である。そして、それはまぎれもなく、もっとも一般的な、人々がクリスチャンに対する間違った見解なのである。どうして、私たちは、それに陥るのだろうか。ユダヤ人たちは、イエスをもっともな理由で憎んだ。宗教的な理由で、聖書的な理由で。彼らは、イエスが安息日を破るといった−聖書を無視するので彼を憎んだ。神が、自分のルールを破ることは不可能のように思える。だが、私は、神が時々することだと気づく。私たちは、「違います。神様。それをしてはいけません。」と主張するが、しかし、神は、神のプラン通りにそれをなさるのです。

旧約聖書では、神よりも良く知っていると思っていたヨナという男がいた。神は、彼にニネベという堕落した市に行って、彼らがその悪事から悔い改めるよう説きなさいといわれた。しかし、ヨナは、神が言われたこと拒み、逃げたのである。どうして、ヨナが拒んだかわかりますか。なぜなら彼は、神は、慈悲深い方だからニネベを赦すことをしっていた。ヨナは、神が間違えたことを確信していた。それらのひどいニネベの人々は、罰を受けて当然である。彼らは、破壊される期限がとっくに過ぎていた。彼らは、実に堕落した人々であった。もちろん、神は、ヨナを従わせる方法があった。大きな魚の中で、しばらく過ごしたあと、ヨナはニネベの町へ向かい、もちろん神は、破壊するかわりに神は彼らを赦された。ヨナは、がっかりした。「わたしは、これが起こると知っていた。」見ての通り、神の愛は、私たちの愛より大きいのである。私たちが聖書をただ読んだだけでは、私たちは、見逃してしまう。

ヨナは、その堕落した町が滅びるべき、神が罰を与えるべきという確信を聖書の箇所でみつけることが出来たでしょう。しかし、聖書の中には、間違いなく、多くの罪を背負うという信じられない神の愛があるのです。私たちは、それを見逃しています。私たちは、気づかずに読み流してしまいます。しかし、そこにあるのです。私たちが、内側に神の愛がない限り、神の言葉は、同様にそこにはないのです。私たちは、聖書を読んだり、勉強したり、探したりするでしょう。しかし、私たちは、いつも私たちの議事で読んでいくでしょう。それは、私たちの考えの証明文、私たちの裏にあるいい訳、あるいは、する事に対する正当化になるでしょう。私たちの中に神の愛があるとき、言葉は解読されるのです。もし、本当に聖書の暗号があるなら、これがそうです。すべてのはなし、エピソード、たとえ話、預言は、単純な鍵−愛―によって解読することができるのです。おのおのに神の愛を見るなら、本当の意は、出てきます。

イエスは、ユダヤ人に、安息日に癒す唯一の理由は、それが、神の望んで折られたことだからであると言った。神は、人に情をかけたいのであり、それがそうでした。しかし、ユダヤ人は、イエスがそれを言ったことにより、自身を神と同様な位においたので、さらに激怒した。本当は、神を守るという責任を自分たちで負ったのである。この詐欺師から神を守ったのである。私は、神を守ることほど、ばかげたことはないと考えることができる。たとえば、神は、守られることが必要なのか。神を攻撃することは、風邪にむかって、叫ぼうとすること、あるいは、海を持ち上げることである。神を攻撃するときの一番良い策は、かってに言わせることである。神は、ご自身で何でもできるのである。しかし、私たちの目には、すべての信仰や教義についての論争、意見の不一致は、主を守る戦いになっている。私たちは、十字架を盾の裏で立つので、罰を免れながら、他の人を攻撃し、批評する。

使徒の働きにおける教会の急速な始まりの後、イエス・キリストの危険なカルト集団から神を守ろうとしていた熱心なユダヤ人教師がいた。恐怖や殺人といった過激な行動にでていたように、彼は、エルサレム中のクリスチャンを刑務所に送ったり、ある人たちに死をもたらした。この男は、真に神へ遣えているものだと信じていた。しかし、彼は、恐怖と殺人といった過激な行動をしていた。どうやって、彼はそれを見逃すことができるのでしょう。彼の立場になって考えてみましょう。彼は、選ばれたユダヤ人のグループのメンバーで聖書の勉強に完全に従っていた。クリスチャンを迫害することで、彼は時のヒーローであった。皆、聖書への従順、信仰を守る大胆さ、異端に対する勇気ある決心を讃えた。 イエスは、ユダヤ人に44節で言われた。「互いの栄誉は受けても、唯一の神からの栄誉を求めないあなたがたは、どうして信じることができますか。」この教師がエルサレムからクリスチャンを追い出せることに成功したのだが、彼はまだ満足しなかった。彼は、戦いを続けるため、次の大きな町(ダマスカス)へ追いかけていった。しかし、途中で彼は強い目がくらむ光によって、イエスに止められた。その出会いの後、使徒パウロは、他の人から受けるであろう栄誉を気にかけなくなった。 彼の目は、ゴールしたときにイエスから受け取るであろう賞に、向いた。彼は、信仰を守る必要を感じなくなった。代わりに彼は、遠く、広く、聞くすべての人に、信仰を自由に分け与える旅をした。パウロは、だれも攻撃しなかった。彼は、ただ、だれも議論できないような真実を教えているのである。ヨナは、神の言葉と神の性質、両方を知っていた預言者であった。彼は、どうやって、船にのって間違った方へとたどりついたのか。使徒パウロは、彼の時代、もっとも聖書に精通したひとりであった。彼は、どうやってそんなに間違えたのだろう。

聖書は、神のインスピレーションであって、そして、神が信仰深くあるように信仰深いのである。それに、間違いはないのである。しかし、私たちが読む方法で、なんらかの間違いが生じることがある。聖書を理解する鍵は、愛です。愛がなければ、神がしていることを間違って理解し、ヨナがしたように、神に反抗するということになったりします。真実に対する私たちの熱心の中で、私たちは、彼らの救いの喜びを奪ってしまいます。そして、事実、私たちは、彼らの喜びを分かち合うことについて、私たち自身から奪ってしまうことになります。

最終的に、私たちは、私たちは、神を信じるので、聖書を信じます。逆では、ありません。聖書は、神へと私たちを導きます。しかし、それはあなたが、主と個人的な関係を持つ時、本当に聖書が語られるすべてを信じることができるのです。もし、あなたが神を知らないのなら、聖書のある箇所において同意できたり、他の箇所において同意できなかったりすることが分かるでしょう。皆を喜ばせようと試みる限り、聖書を信じることは出来ないでしょう。しかし、もし神を喜ばせることを望むのなら、神の言葉を信じることは、世の中でもっとも自然なこととなるでしょう。

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