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マルコの福音書 10章 「子と仕える者」

さて、イエスにさわっていただこうとして、人々が子どもたちを、みもとに連れて来た。ところが、弟子たちは彼らをしかった。イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」そしてイエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。

神の国はあなたが参加する何かなのだと考えているクリスチャンや教会によって、ご誤解を受けることがあります。私達は「3年前にこの教会に来ました。」とか、「私は東京ホライズンチャペルのメンバーです。」などと言うことがあります。クリスチャンでないほとんどの人は、教会というのは宗教的な人のクラブだと思っているかと思います。確かに私達はクラブのようなことを多くしています。パーティーや奉仕活動、同じような興味を持っている人と会ったり、定期的なミーティングをしたりします。しかし私達とクラブの大きな違いは、だれも神の国に「参加」していないことです。だれもキリストの身体に「参加」していません。神の家族の一員になるたった一つの方法があります。それは私が自分の父親の家族の一員になったのと同じ方法です。私の息子が私の家族の一員になったのと同じ方法です。あなたは家族の中に生まれたに違いありません。

私達はクラブ、会社、またはチームに加わろうとする時、履歴書を持っていくと思います。これが私です、私にはこれができます、会員になるための私の資格はここにあります、と言うようにです。しかし赤ん坊はどうでしょう。私は兄の奥さんが男の子を産んだというニュースを金曜日に聞いた時、とても喜びました。彼の名前はサンディウエィンウィルソンで、アリゾナのグランドキャニオンに住んでいます。誰も子どもに向かって「あなたの資格を見せてください。」とは言いません。常に正しい書類を要求することに勤めている移民帰化局でさえ、サンディがアメリカに誕生した時、彼のパスポートを調べに来ることはありません。サンディは、自分は家族の中にいる価値があることを証明する必要はありません。彼はただ家族の愛を受けるだけでいいのです。しかしこんなことすら今の世は変わってきています。胎内を出る前でさえ、履歴書を求められる多くの子供が今はいるのです。親は子供達を調べ、その子を保つか、中絶するかどうかを決めるのです。どの子供も、自分が愛を受ける価値があるかどうかを証明する必要はないのです。これはイエス様がその日子供達を抱き、祝福された時に言ったことなのです。

神の国は家族です。そこに入るたった一つの方法は、その中で生まれることです。使徒ヨハネは、神はその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになったと書いています。私達は血からでも、肉体の願いからでも、人間の願いからでもなく、神から生まれたのです。私達はパスボートを見せたり、機械の中にチケットを入れたり、申し込み用紙を記入したり、自分達の方法で支給することに慣れています。しかし神は「そんなことは心配する必要はありません。あなたは私とともにいるのです。」と言っています。実際、私達が考える全てのことは、自分達をよく見せようとしていますが、本当は重荷を負わせるものなのです。イエス様は道端でこのような人と会いました。

イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。「あなたには、欠けたことが1つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

イエスは、見回して、弟子たちに言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。」弟子たちは、イエスのことばに驚いた。しかし、イエスは重ねて、彼らに答えて言われた。「子たちよ。神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」弟子たちは、ますます驚いて互いに言った。「それでは、だれが救われることができるのだろうか。」イエスは、彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」

この人は手腕家でした。多分こんな人が、あなたが通った学校にもいたかもしれません。彼はお金持ちで、何でもうまくこなして、勉強もスポーツもでき、先生にも可愛がられています。こんな人は、あなたが本当に嫌いなタイプでしょう。しかし彼があまりにも良い人だからという理由で、嫌いになることはできません。彼は誠実にイエス様のところへやって来ます。彼はたとえお金持ちでもひざまずいて、永遠のいのちを相続するために、何をしなければならないかをイエス様に尋ねます。しかしイエス様は彼が驚く答えをします。「あなたはなぜ良いことのために、私を呼ぶのですか?良いものはたった一つです。それは神です。」あなたは若いお金持ちの人が、どんなに自分が良い人間であるかを、証明しようとしていることがわかるでしょう。それに加え、彼に欠けていた唯一のことは、自分を一番に置いたことです。イエス様は彼がどんなに良い人間であるかは問題ではなく、神がどんなに良い方であるかということを表そうとしました。たとえこの人がお金持ちでも、良い人間になろうとしても、掟を守っても、彼は神の国の近くにさえいなかったのです。弟子たちも同様にショックを受けました。「もしこの人が神の国に行けないのなら、誰が行くことができるのだろうか?」この世の中の全ての宗教人が聞く必要のある言葉、「それは人にはできないことです。」とイエス様は言いました。私達にはできないかもしれないと思って、試してみてください。、もし私達がいのちを作り出せるなら、私達はモンスターか何かのように終わると言った、フランケンシュタイン博士のようにです。「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」もし私達がいのちを作り出そうとしるなら、モンスターとして終わりますが、もし神がいのちを与えるなら、子は新しく生まれるのです。

ペテロがイエスにこう言い始めた。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。」イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その100倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。しかし、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」

ペテロと弟子たちは全てを置いてきました。何に頼るのでもなく、キリストに頼ったのでした。キリストは彼らが報酬を受けることを保証しました。どうか注意して聞いてください。なぜなら私はイエス様がここで何を教えているかを、あなたにきちんとわかってほしいのです。イエス様はお金持ちの人に、彼の持っている全てを売るように言い、全てを手放したペテロをほめたたえました。多くの教会は、あなたが本当に良いクリスチャンになるためには、全てを手放すことだと教えるためにこの節を使います。問題は、彼らは全てを自分達に渡してほしいのです。これはどうカルトが動いているかです。彼らはこの世の所有物は精神的なことからあなたの邪魔をすると教え、それらを置いてくるように言います。私が理解できないことはなぜカルトのリーダー達は邪魔をされないのかと言うことです!イエス様はお金持ちに自分の持ち物を売って、教会に寄付をしなさいとは決して言いませんでした。彼は「あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。」と言いました。イエス様は自分に加わってくれるお金持ちのメンバーを採用してはいませんでした。彼はその人に新しく生まれてほしかったのです。うぬぼれの強い、手腕家は必要とはしていませんでした。神の子がほしかったのです。

私は以前クリスチャンの「名刺」についてお話しました。もしあなたがクリスチャンに会う度に、「神の子、御国の相続」と書いてある名刺を受けとったなら、そのタイトルに見合う尊敬をもって接するべきです。しかしその名刺の裏には「誰も誇ることのないために、恵みによって救われた」と書いてあるのを覚えていてください。クリスチャンの「名刺」についてもっと言わせてください。表には「神の子」と書いてあり、しかしその下にははっきりした印刷で、 「ただイエス様のように」と書かれているのです。ヤコブとヨハネはこのはっきりした印刷を見つけました。

さて、ゼベダイのふたりの子、ヤコブとヨハネがイエスのところに来て言った。「先生。私たちの頼み事をかなえていただきたいと思います。」イエスは彼らに言われた。「何をしてほしいのですか。」彼らは言った。「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」しかし、イエスは彼らに言われた。「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。」彼らは「できます。」と言った。イエスは言われた。「なるほどあなたがたは、わたしの飲む杯を飲み、私の受けるべきバプテスマを受けはします。しかし、わたしの右と左にすわることは、わたしが許すことではありません。それに備えられた人々があるのです。」

ヤコブとヨハネは神の子である特権を要求したかったのです。彼らは「もし私達が神の子なら、御座に座ってもよいだろう」と考えました。しかしイエス様は彼らに「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲むことができますか。」と尋ねました。本質的には、イエス様は「あなたがたは私のようになることができますか?」と尋ねたのです。残りの弟子たちがこのことを聞いた時、彼らは非常に混乱しました。

10人の者がこのことを聞くと、ヤコブとヨハネのことで腹を立てた。そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

神の子として御国に入ることは重要なことです。事実、他の道はないのです。私達は自分が信じている全てのものを手放し、信じて、何も持たず、イエス様のところへ来なければなりません。しかし一度キリストのところへ来たのなら、幼子のままでいてはいけません。イエス様は私達に子供っぽいままでいてほしいのではなく、むしろ彼のようになるために成長してほしいのです。これは神の国はプールに行くようなものであると言う意味ではなく、ロッカールームで洋服を脱いで、ただショーツでプールサイドへ進んだなら、置いてきたものを着ることはしないでしょう。あなたは以前のような大人に戻るのではなく、新しく生まれた後、イエス様を見て、彼と同じような人になるための成長をするのです。イエス様はこの世で私たちが知っていること、経験することとは、とても違うというのがわかるでしょう。神の国では先のものが後になり、あとの者が先になるという違いです。みんな先になりたい、うまくやりたい、トップになりたいと願うのですが、イエス様は私達の先という考えと彼の考えとはとても違うことを教えています。もしあなたが偉いなら、仕える者にならなければなりません。もしあなたが先になりたいのなら、全ての人の奴隷になるのです。弟子たちの頭の中は混乱していたに違いありません。「どういう意味なのだろうか?」私も混乱します。「イエス様、あなたは何がほしいのですか?子どもですか?仕える者ですか?」イエス様は「混乱しますか?」と言ってから、私を見なさいと言いました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」

さて、一行は、エルサレムに上る途中にあった。イエスは先頭に立って歩いて行かれた。弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた。すると、イエスは再び12弟子をそばに呼んで、ご自分に起ころうとしていることを、話し始められた。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は3日の後に、よみがえります。」