Tune
in to Grace Radio 24 hours a day!
マルコの福音書 15章「十字架への道」
夜が明けるとすぐに、祭司長たちをはじめ、長老、律法学者たちと、全議会とは協議をこらしたすえ、イエスを縛って連れ出し、ピラトに引き渡した。ピラトはイエスに尋ねた。「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」イエスは答えて言われた。「そのとおりです。」
そこで、祭司長たちはイエスをきびしく訴えた。 ピラトはもう一度イエスに尋ねて言った。「何も答えないのですか。見なさい。彼らはあんなにまであなたを訴えているのです。」
それでも、イエスは何もお答えにならなかった。それにはピラトも驚いた。 ところでピラトは、その祭りには、人々の願う囚人をひとりだけ赦免するのを例としていた。たまたま、バラバという者がいて、暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに牢にはいっていた。
それで、群衆は進んで行って、いつものようにしてもらうことを、ピラトに要求し始めた。そこでピラトは、彼らに答えて、「このユダヤ人の王を釈放してくれというのか。」と言った。ピラトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである。しかし、祭司長たちは群衆を扇動して、むしろバラバを釈放してもらいたいと言わせた。そこで、ピラトはもう一度答えて、「ではいったい、あなたがたがユダヤ人の王と呼んでいるあの人を、私にどうせよというのか。」と言った。
すると彼らはまたも「十字架につけろ。」と叫んだ。 だが、ピラトは彼らに、「あの人がどんな悪い事をしたというのか。」と言った。しかし、彼らはますます激しく「十字架につけろ。」と叫んだ。それで、ピラトは群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放した。そして、イエスをむち打って後、十字架につけるようにと引き渡した。
今日、私は十字架についてあなたに話したいと思います。それは、世界中で最も持続的なシンボルのうちの1つです。私達は常にそれを見ます。勿論キリスト教の教会や組織がそれを使いますが、また赤十字やここ日本では緑十字があります。金、銀、ダイヤモンド、または真珠の十字架を見ることなしに電車に乗ったり、宝石店に行くことはありません。もし十字架への私達の常なる露出のため、そのメッセージの私達の理解が弱められるのではないかと思います。私は、十字架を理解するための正しい方法は何であるか、イエスキリストの十字架に来る最も良い方法は何だろうかと考えます。十字架を見る時、あなたは何を考えますか?たぶんあなたは美しさ、または希望、平和、恵みと考えるかもしれません。十字架は確かにこれら全てのことを意味しています。しかしイエス様にとっては、それはまず他の意味があります。もし私達が十字架のこれらの面を本当に理解するなら、まず初めに、私達の苦しんでいる救い主の目を通して十字架を見なければなりません。
先月、私はカンボジアに行きました。その旅行の中で最も忘れられないものの1つは、プノンペンにある大量虐殺の美術館の訪問でした。それは、かつてフランス人によって建てられた学校でしたが、1970年代にポルポトが、拷問キャンプに変えました。彼は、かみそりワイヤーでそこを囲み、教室に小さな独房を建てました。そして組織的にその場所で数千人の人々、男、女、子供を拷問し、処刑しました。美術館には、拷問の器具のいくつかを展示したディスプレイケースがありました。私はそれらがどのようなものであったかは言いませんが、どんなに悪い創造力をもった人間が、人に痛みを与えることができるかということを示していました。これが、イエス様が最初に十字架を見た時に見たものです。彼は拷問の器具を見ました。彼は数時間に及ぶ肉体的な苦しみと、最終的な死の意味を見たのです。群衆が「十字架につけろ」と叫んだ時、彼らは長時間に及ぶひどい死を、彼に宣告していたのです。
先週私達はゲツセマネの庭のイエス様について読み、イエス様の全ての部分は救出のために神に叫んだことを話しました。彼の肉体は苦痛に対して叫びました。彼の頭の中は不正に対して叫びました。彼の感情は恥辱と十字架の拒絶に対して叫びました。もしあなたが美しいものとして首のまわりの十字架を今までにかけたことがあるなら、まず初めに、この十字架は拷問の道具または殺人の銃と同じくらい醜いものであったことを知ってください。
兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と叫んであいさつをし始めた。また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。そして、彼らはイエスをゴルゴタの場所(訳すと、「どくろ」の場所)へ連れて行った。そして彼らは、没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたが、イエスはお飲みにならなかった。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。そして、だれが何を取るかをくじ引きで決めたうえで、イエスの着物を分けた。彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王。」と書いてあった。また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。こうして『この人は罪人とともに数えられた。』とある聖書が実現したのである。
神の前で正しく歩いていて、罪のない生活をしていたたった一人の人が、自分が助けに来た人たちによって犯罪者として、処刑されべきとは信じられないことではないでしょうか?そして彼が十字架にかけられ、律法を守るべき人々は彼の衣服を盗み、誰がそれを保持できるか賭けをしていたのです。マルコが引用した聖書を開いてみましょう。イザヤ書53章12節「彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」神はなぜイエス様が苦しんだか、なぜ不正な拷問をされ、殺されたかをイザヤを通して説明しました。イザヤ書53章4節「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」
たぶん、あなたは希望や、助けや、癒しを十字架の中に見たでしょう。しかしイエスキリストの到来以前には、誰も希望として十字架を見ませんでした。彼らが十字架を見た時、彼らは運命付けられ、絶望的であると知っていました。しかし私達の主が私達の罪に耐えことを願ったので、私達は希望を持っているのです。
さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる。」と言った。すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。
イエス様は神の息子でありましたが、人間の心と感情を持って誕生しました。十字架の上で、彼は全てのいろんな種類の感情と肉体の苦痛を持ちこたえさせられました。彼は馬鹿にされました。彼らは彼を嘘つきで、自慢家のようにさせました。彼らはイエス様ではなく自分達が神によって送られたものであるようにさせました。さらに悪くさせたのは、即座にイエス様は十字架から降りてくる事ができたのです。即座に天使達は彼を救う事ができたのです。もしイエス様が父に背くなら、彼はどんなにそれらが悪いことかを彼らに示すことができたのです。しかしイエス様は父に背きません。そして、これが最後の部分をこんなに難しくさせているのです。なぜなら最後に、イエス様は「十字架につけろ!」と叫ぶ群衆や、あざける軍人、満悦している祭司長、逃げ出した弟子達によって拒否されただけでなく、彼が助けるために来た人たちに拒否されただけではなく、彼は世界の罪を背負い、神の憤りの対象となったのです。神、父はイエスキリストから顔を背けました。そしてその恐ろしい瞬間、完全に従順の中にいるイエス様は嫌悪で、神の目からは悪とされる者となったのです。彼は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫びました。
ダビデはこの数年前に多くの詩篇(22)を書きました。それはたぶん、彼は自分の息子に起こるひどいビジョンを受け取っていたのでしょう。彼は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と同じ言葉で詩篇を始めました。そして16節「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむものが群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられるほどになったわたしの身体を、彼らはさらしものにして眺め、わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」
たぶん、あなたは平和の印として十字架を見たでしょう。このことを知ってください。私達の主は文字通り、私達にその平和を得させるために、地獄を通り抜けたのです。イエスキリストの前では十字架は醜いものであることがわかるでしょう。それは肉体的な拷問の器具であり、政治的、および宗教的な囚人を処刑するために、不公平な政権によって用いられました。しかし、イエス様はそれを美しいものに変えました。なぜなら、それを通して、彼は私達の罪のための処罰を取ったからです。私達が十字に来る時には、私達は神に受け入れる美しさを十字架の中に今見ることができます。聖なる、清い美です。イエス様の前ではこの十字架は行き止まりでした。それは絶望の印でした。しかし、イエス様はそれを希望の印に変えました。私達は十字架に頼り、私達は代価が支払われたことを知ります。そしてイエス様は彼が心から代価を支払った人達を、救うこと忘れることは決してないのです。イエス様の前では、十字架は感情の苦痛、拒絶、および恥辱でした。しかし、イエス様はそれを、赦し、愛に、そしてついに平和に変えました。私達は十字架を見て、それが終わった事を知ります。私達は神の家族の中に受け入れられ、二度と拒絶されることはないのです。私達の主、イエス様はこの醜く、残酷で、恥辱な十字架を、美と、希望と、平和と愛の印に変えました。もしあなたが彼を受け入れるなら、彼はあなたの心に同じことをすることが出来ます。あなたがするべきことは、彼を受け入れることです。そしてイエス様もそうするでしょう。
神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。