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マルコの福音書 7章 「人間の教え」
さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。イエスの弟子のうちに、汚れた手で、すまわち洗わない手でパンを食べている者があるのを見て、-----パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。----- パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』
パリサイ人たちは、イエス様の弟子たちが昔の人たちの言い伝えに従っていないので、イエス様のことを非難しました。しかし彼はイザヤの言葉を用いて言い返しました。本当の問題は、パリサイ人たちが、言い伝えに従うことが神を本当に礼拝することだと思っていたことでした。
私達は先週キャンプに行き、素晴らしい時間を過ごしました。私はホゼと多くの時間をともにしました。私達の教会について彼が言ったことに、私は励まされました。彼が私達の教会の中で見たことについて話してくれた時、それは主が私の心に備えられたことと全く同じであると悟ったのです。私のこの教会におけるビジョンを今日話したいと思います。私はマルコの福音書7章を読むことによって動き始めました。私のビジョンは神の言葉のための代用ではありません。もし私達が自分のビジョンを追い始めたら、礼拝は意味のないものになります。私達は言葉を語っているだけで、心は神からずっと離れているのです。どうぞジョナサンがこう言った、牧師がああ言った、と言わないで下さい。そうではなく、私達の心はイエスキリストとともにあり、私達の基盤は御言葉であり、霊と誠の中で彼を礼拝するのです。

私のグレースフェローシップへのビジョンは2つの点に焦点を置いています。それは私達がお渡ししている、裏に地図が書いてあるトラクトの中にも書いてあります。まず最初に「イエス様が愛するように愛すること」、そして次に「御言葉を教えること」です。この2つは繋がっています。一方がなくて、もう一方は成り立ちません。
「イエス様が愛するように愛すること」というのは、私達がイエス様と親しくなることを意味してます。勿論この意味はイエス様がなさったことを聖書の中で学ぶことです。しかし私達は、イエス様が私達それぞれの生活の中で行った体験を通して学ぶことがあります。イエス様の愛が何であるのかをただ学ぶのではなく、実践的な方法でお互いを愛し、教会生活の中でその愛を生かすのです。私の願いは、キリストの愛について良い教えが、言語や牧師の言葉を通してではなく、教会の中の人々の行いを通して教えられることです。私のこの教会のビジョンは、訪れる人全員がキリストの愛を直接体験することなく帰ってしまわないことです。
どうやってイエス様は愛するのでしょうか?まず最初にイエスキリストの愛は赦しであります。私達は聖餐式をするたびにそれを思い起します。イエス様は、終わりの時には誰もそばにいないことを知っていたにもかかわらず、どうして弟子たち全員を赦されたのでしょうか。彼は「みな、飲みなさい」と、ユダにさえ赦しをお与えになりました。多くの人が、自分がしたことは神の赦しには及ばないと思いながら教会に来ます。彼らはたいていもし自分のしたことをクリスチャンの人に話したなら、クリスチャンはそれを処理できないと考えます。私達はショックを受け、その人は変わった人だと見始めます。しかし神様はショックを受けるでしょうか?イエス様が「みな」と言ったあの時点から気持ちを変えるのでしょうか?私達がわかちあえる最大の愛はキリストの赦しです。その最も良い方法は、キリストの御名をもって条件なしに人を受け入れることです。当然彼らは完全ではないし、まだ罪を持っているのです。しかしもし私達が彼らを行いを通して赦し、受け入れるなら、キリストが彼らのいのちを変えるチャンスを得るのです。
次にキリストの愛は、自分自身を犠牲にし与えることです。イエスキリストは「人がその人のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。神は実にお与えになったほどに世を愛されました。」と言いました。本当の愛は教会でただ微笑むだけでも、温かな握手をすることでもありません。それは私達にどんな見返りがあるのかを考えることなく、居心地の良いところにとどまることなく、自分自身を与えることを伴います。実践的な方法としては、愛の決心です。子供達のために自分自身を捧げることはとても良いことです。なぜなら、イエス様以外から何かを得ることは決してないとわかるからです。子供達があなたがしたこと全てに感謝して、ありがとうと突然小切手を書くことはないでしょう。それにもかかわらず、私達の教会は愛の決心を通して本当に祝福を受けています。カンボジアへのミッションも同じです。それはイエス様が愛したように、私達が愛することのできるチャンスなのです。そのチャンスは海の向こう側まで届き、何千人もの人にミニストリーをするのではなく、そこで助けが必要なたった一人のところにいくのです。私はある日、日本でするべきことが既にたくさんあるにもかかわらず、なぜカンボジアまで行くのかと尋ねられました。良い質問です。私はそれは主が導く場所だからです、とまず答えなければなりません。次に私達がカンボジアに施しをするように、私達のここでのミニストリーを主が大いに祝福されると期待しています。成長したクリスチャンの施しや、カンボジアへのミッションは、私達の教会に与えるということを教えるでしょう。愛の決心とカンボジアは、私達が献身的に与えるということを目で見る方法です。しかし個人的なレベルでは、私の願いは、私達がこの方法を継続的に行いながらお互いを愛することです。メンバーそれぞれが他の人のために遣える方法を探すことです。
「御言葉を教えること」は次に私達がすることです。あなたも知っているように、日曜日は一章ずつ聖書を学びます。少し飛ばすこともありますが、全てを学ぶことに努めています。聖書全体を教えることがなぜ重要なのでしょうか?まずそれは他のことにとらわれず、イエスキリストのみに集中することが重要だからです。聖書の中には預言、癒し、終わりの時、奇跡、結婚、ミッション、伝道、などなどいろいろなことが書かれており、そのリストはまだまだ続きます。しかし聖書全体としては、これらの何一つも言っていないのです。聖書全体が何を言っているのか。それは初めから終わりまで、神があなたを愛しておられ、あなたと関係を持ちたいということ、そしてその意味はイエスキリストとの関係を築くことなのです。私のような牧師にとっては、その時自分が興味を持っていることについて教えがちなのですが、それはあなたにとってはよくありません。しかしもし私が聖書全体を教え、そしてイエス様に目を向けるならどうでしょうか。私達が聖書全体を教えるもう一つの理由は、「聖書はすべて、神の霊感によるものである」と、テモテの手紙第2 3章16節で言っている通りです。この意味はたとえ私達がレビ記やハバクク書を読んだとしても、神は目的をもって聖書の中にそれを入れ、私達のために何かを保っているのです。 もし私達がそれを飛ばすなら神が私達に教えたいことを見逃してしまうでしょう。
テモテの手紙第2 3章16節を引き続き見てみると、神が御言葉を用いて私達を鍛えているのがわかります。「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。」聖書の一つ一つは、神の働きのために私達を養っています。イエス様のところへ来たパリサイ人は本当に重要なことについて混乱しました。彼らは手を洗うことや、言い伝えを強調し、自分達の教えを守ることに従事して御言葉をおろそかにしたのです。
最後にテモテの手紙第2 4章1節でパウロはテモテと牧師達にこう言っています。「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」御言葉を宣べ伝えよう!
これが教会としての私達についてです。私達はイエス様についてできる限りのことを学び、そして最善を尽くして彼と親しくなりたいのです。