カルバリーの風 1号                                  2006年7月


祈祷会
 私たちの教会では現在週の半ばの祈祷会(バイブルスタディー)において「ホセア書」を学んでいます。小預言書とよばれるこの預言書のテーマは、「帰ってこい」です。姦淫の女ゴメルを妻としてめとれと主からホセアにことばがあります。この女はまさしくイスラエルの象徴でもあり、姦淫とは神以外の偶像を拝みおのれの道を進む姿です。(ホセア書3章参照)
 やがてアッシリアに滅ぼされるイスラエルに対して語る主のことばは、主の真実の姿を現しています。「わたしに罪を犯した者はだれであれ、わたしの書物から消し去ろう。(出エジプト 32:33)」と言った神は同時に、ホセア11章で「わたしの心はわたしのうちで沸き返り、わたしはあわれみで胸が熱くなっている。わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライムを滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるからだ。わたしは怒りをもっては来ない。」と言い、そしてそれは後に神が救い主イエスとしてこられる預言となっています。
 預言書の一番の目的は神がどんな方であるかを知ることにあります。正義(正しい裁き)とあわれみに相反する決して交わることのない線のようなものです。正しさを主張して裁く姿にあわれみはなく、あわれみと言って妥協するなら正義に欠けます。しかし、その二つが唯一交わる所があるのです。それが十字架です。本来なら裁かれる私たちの身代わりとなって神がさばかれた所、カルバリーの丘に主の愛が完全に現されたのです。
 祈祷会では単に一方的な学びではなく、ディスカッションの時を大切にしています。Qシートを通して、学び方を学び、やがて聖書を伝えることをできることを目指します。


    レディースグループの学び

 毎月第3木曜日に山東さん宅で行われます。10:30に賛美で始まり、山東利津子さんのメッセージとお祈りの後、もちよりの昼食と交わりの時となります。多い時は10人位のメンバーが集まり、少人数でゆっくりと過ごせる良い時です。 

 約1年間にわたって学んできたエペソ人への手紙が5月で終わりました。神の絶大な力の中でパウロが獄中から語る迫力あるこの手紙を通して、異邦人である私たちが神の憐れみによって救われたことや、実際的にこの世に建てられた権威に従うこと、霊的な戦いに勝利するための武具を身につけること等を学んできました。6月からは「私の心はキリストの住まい」という小雑誌を使って、各自が一つ一つのこころの部屋をチェックし、キリストにあけわたしていくことを学んでいきたいと思います。


 清瀬  喜望園での集会
 清瀬  喜望園は東京都による低肺患者(結核の後遺症による呼吸器障害を持つ人たち)のためのホームです。100人の収容人数を持つこの施設に当初十数名のクリスチャンがおりナザレ会を発足しました。彼らの多くは日常生活を営むものの、毎週自分の所属する教会の礼拝に集うことが難しい状態でした。そんな施設に私たちの教会の人が入所した関係で湖浜先生が月一回の礼拝を担当し、それを山東牧師がついですでに10年になります。その間、ナザレ会以外の方々も救われました。しかし、障害が呼吸器であるためにどの方もいつ亡くなられてもおかしくない状態で、毎月の礼拝は緊張したものです。
 そんなナザレ会も一人、また一人と天に召されて残すところ現在中心的に会を進めてきた、武井さんと神宮寺さんの二人になりました。しかし、主がこの働きを通して仕えさせて頂ける限りつづけます。新たな人が加えられますようにお祈りください。現在第三水曜日の午後二時から礼拝をしています。共に集ってみようと思う人は牧師まで連絡をください。



乳幼児科について

0歳から4歳児までの子どもがいます。

3歳児以上は賛美のあと、お絵描き、ぬりえ、ハサミを使って切り取ってのりつけしながら、鉛筆の使い方、クレヨンの塗り方、ハサミの使い方、のりつけなどを遊び感覚で楽しく身につけています。その後、積み木や、おもちゃなどを使って遊んだり、時にはシャボン玉やかくれんぼなどもしています。3歳以下の子どもはご両親のどちらかが一緒にいて、おもちゃで遊んでいます。

最近は小さい子どもが増えてにぎやかになっていますが、3階の母子室でもスピーカーからメッセージが聞けます。

奉仕者が子どもたちとどのように関わっていいのか、遊びの中でも神様の事を教えていくための知恵が必要ですので皆さんからのアイデアやアドバイスを必要としています。また、毎週同じおもちゃなので子どもたちは飽きてきています。家で眠っているおもちゃがあれば提供してください。お勧めのおもちゃがあれば教えてください。

べ—ビーシッターを含め、奉仕者が与えられるようお祈りください。

 


    CS  小学科

 現在の教師、S.N先生、Y.A先生、R.S先生の3人で順番に今は「黙示録」を教えています。

 生徒はK.Aくん、T.Aくん、T.Hくん、Y.Sちゃん、N.Sちゃん、T.Mちゃん、Y.Mくんの7人です。又、大人のTさんが、生徒といつも一緒に座ってくれ、その笑顔やイエス様のように仕える姿は、先生を励まし、子供達を安心させてくれます。まず、賛美をし、生徒が用意した「なぞなぞタイム」をします。又、先週一週間の出来事や、祈って欲しい事をわかちあいます。そして、その日に来れなかった子のためや、祈りのリクエストを子供達が祈ってはじめます。先生は、黒板に絵を書いたり、紙芝居を用意したりして、できるだけわかりやすく教えています。ティーチングの後、黒板に書かれている暗唱聖句を各自がノートに写し、覚えたら手を上げ、先生に聞いてもらいます。字が読めなかった子供も、日に日に御言葉を上手に読み、ノートに写していく作業が速くなり、子供の成長には驚かされます。覚えた御言葉が彼らの大きな力となると信じます。又、日曜日だけでなく、子供達が毎日神様との交わり語りかけ祈りの中で、生活していくことができるように、お祈りください。

 


    中高科

現在中高科はこの4月からY.S君、T.H君が高校生になり、Y.S君も中3で受験生。

そして新しくS.Hちゃんが中学生になって野郎ばかりの中高科に一輪の花が咲いた!

栞ちゃんが入って来た事もあって今まで学んでいた「マタイの福音書」を中断して

もう一度、聖書の基本を学び直そうと中高科基礎教理シリーズを学んでいます。

1回  聖書は本当に神のことばか?

2回  罪とは何か?

3回  イエス・キリストは?

4回  悪魔の存在

5回  これから起こるべき預言

6回  律法と恵み

この基礎教理を終えて「マタイの福音書」に戻る予定です。

今までは中高科の礼拝が終わると野球などして体を動かす遊びをしていましたが

栞ちゃんが来た事でカードゲームをしながら交わりを楽しんでいます。

女の子がS.Hちゃんだけなので一人でも(たくさんいることに越したことはありませんが)

とにかく女の子が来てほしいので是非祈りに覚えてください。


カルバリーチャペル西東京の発足式
 2006年イースターの礼拝につづいて、カルバリーチャペル西東京の発足式がもたれました。この教会のいままでの歴史と、主がこのように新たな名前をもって再スタートするようにと導かれた経緯が話されました。(内容については後ろに書かれています。)復活祭の時にふさわしく、私たちの群れは新しく生まれ変わったのです。それを実感するのには少し時間がかかるかもしれませんが、大切なのは名前ではなく主の臨在であって、互いに仕え愛し合う姿です。主がこの新たにスタートした群れ「カルバリーチャペル西東京」を大いに祝してくださいますように。



 
   
カルバリーチャペル西東京の発足について
 私たちの教会は「カルバリーチャペル西東京」と名前を変え、新たな再スタートを迎えた所です。今までカルバリーチャペルといえば、それはアメリカのチャックのスタートした教会を意味し、そのスタイルや理念を学んで日本にも同じようなみことばを実践する群れを広げたいという意味合いが強かったのかもしれません。しかし、これからはカルバリーチャペルといえば、即、私たちの教会を意味するわけで、もう理念を学んでいるという段階は終了し、まさにカルバリーチャペルとして主のわざを実践する段階にあると判断したからです。
 アンテオケ東京教会として18年間やって来た歴史は大きな意味がありますが、その間に積み重ねてきたものが新たな主のシナリオを受け取る妨げになってはいけません。
   また、だれも新しいぶどう酒を古い皮袋に入れるようなことはしません。
  そんなことをすれば、新しいぶどう酒は皮袋を張り裂き、ぶどう酒は流れ出て、皮袋も
  だめになってしまいます。新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。
                              (ルカ 5:37ー38)

とある通りです。大切なことは外側に見える部分やさまざまな経験則ではなく、主との交わりにあるいのちです。それは常に主に聞き、柔軟に主のシナリオを受け取っていく姿です。
 私たちの教会の前身である「アンテオケ東京教会」は18年の歴史を終え、今年のイースターをもってあらたにカルバリーチャペル西東京として生まれ変わりました。全員で同じスタートです。新たに加わった人に「自分はこの群れに来てまだ数年しかたっていないから・・・」と思わせる伝統は、主のわざを行う上での妨げ以外の何物でもありません。何年もいる人も今年加えられた人も同じ大切な家族の一員として共に主に仕え、主のシナリオにいきるのです。
   彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。・・・・
  そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事            をともにし、神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。                   (使徒の働き 2:42-47参照)



  カルバリーチャペルジャパンカンファレンス2006年

 5月5日(金)・6日(土)、八王子大学セミナーハウスにて、カンファレンスが行われました。この会場での開催も3度目となり、今までのアメリカのカルバリーチャペルが主導的に開催している集会から一転して、今年は国内9つのカルバリーチャペルがアメリカのカルバリーチャペルの応援を受けて自らで開催しているという印象が強いものとなりました。アメリカからはハワイのパスタービルをはじめカリフォルニアのアシスタントパスターたち、カルバリーチャペルコスタメサ(チャック・スミス)の日本語部や日系の牧師が始めた災害救援活動からも参加者がありました。

このカンファレンスは国内のカルバリーチャペルに集う一般信徒を対象に行い、今までの「パスター、リーダーカンファレンス」の文字が消え、カルバリーチャペル・カンファレンスとなっているのが特徴でした。今までのどちらかといえば、アメリカの主導のもとにあるカンファレンスから日本のカルバリーチャペルが中心となり、多くの日本の牧師たちも教え、英語を話す人には無線で通訳がなされていました。はっきり言って日本語で語られるメッセージは聞きやすいというのが正直な感想です。
 アメリカのカルバリーチャペルから何かを学ぶといことではなく、その理念と適応を聖書から学ぶわけで、アメリカでは、日本では、という枠ではなく、共に主から呼ばれ同じ時代に遣わされた者が主にあって異なった世界へと遣わされているという視野の中で、同じ働きに召された者が共に歩く姿を見ました。
 今回のテーマは「神の国」で、5日に「神を信頼する」「神の国を建て上げる」「霊の戦い」「神を喜ばす」、6日に「神に捧げる人生」「神の誠実さ」「神のみこころを知る」「祈り 神との親しい交わり」のそれぞれ4セッションと、3カ所の会場にわかれてのワークショップが行われました。また、6日には今回初めての企画として、スモールグループというコーナーがありました。リーダーを中心にその場で6〜7人のグループを作りました。今まで聞いたセッションの証しや、分かち合い、また互いに祈り合ったりして、他の方々との良き交わりの時となりました。

 そして、7日(日)はグレンさん、ベッキーさんをお迎えして特別礼拝が行われました。またジェイミーさんの証しもあり、スクールオブミニストリーのジョージさんも来られて、みんなで良い時を持ちました。


 西東京市の牧師の祈り会
 市役所の前の東京グレイス福音教会の石坂先生と田無警察の近くの落合記念教会の山口先生と山東牧師で約3年間、月に一度の祈り会をもってきました。昨年、主からの励ましを受けて市内18教会に声をかけ、西東京市の牧師の祈り会として昨年12月より輪を広げました。13の教会の賛同を受けて、現在近隣の教会も加え11人の牧師たちが祈り会に参加しています。活動は月に一度場所を変えて集まり、祈りと交流を深めています。平均5〜6人の出席者ですが、この働きは単に集う牧師のためだけでなく、各教会に集う信徒の方々、そしてこの町に遣わされている次の世代のクリスチャンにとっても大きな助けとなることを実感しています。
 
この町のキリスト教の歴史は古く、いくつかの群れは60年以上の歴史を持っています。すばらしい限りです。しかし、同時にこの所でも例にもれず、過去において各教会間にさまざまな関わりがあったり、教団間や信徒たちを通しての必ずしも正しくない情報によって私たちが交流することが難しく思える状況があったのも事実のようです。私の前任の牧師である湖浜馨先生も実は若い時に問題を起こして市内のある教会から破門になったと初めて聞き驚きました。やがて年月がたって、いのちのことば社で百万人の福音の編集長をし、後に東伏見福音キリスト教会の牧師を務め、さらに同市内の西武柳沢キリスト教会の会堂建築にたずさわったと聞きます。その後、牧会上の意見の相違からその教会を出て、もう牧師は引退しようと決意した時の最後の奉仕としての中国へ聖書を運ぶ旅の途中でアメリカからのカルバリーチャペルの牧師たちに出会います。聖書をそのまま教え、そのまま実践する教会が本当にあるなら自分も一から学び直したいと今までのものを一切すててまったくの一からの出発としてカルバリ−チャペルの牧師に学びます。そして先生を慕って出て来た人たちと共にアンテオケ東京教会がスタートしたのです。しかし教会を出たということは、そこには当然残された羊がいたわけで、牧師に捨てられたというその方々のこころの傷は容易に想像できます。このようにさまざまな過去の関わりの上に現在があるようです。

 私たちの群れにも他の教会からの人も多くいますし、他の教会に移っていった人もいます。そしてまた今後、主から遣わされてこの町にも新たな群れが起こるでしょう。そんな時、過去の傷やせまい独自の教会観に捕らわれることなく、「主にあって一つ」へとなるように癒して頂きたいとこころから願っています。それは単に私たちのためだけでなく、私たちの次の世代のためでもあり、また今後救われる多くの魂のためでもあるのでしょう。
   これは、私たちがサタンに欺かれないためです。

 私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。(2コリント2:11
そんな中で私たちはうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、共にイエスを主と仰ぎ、互いにキリストのからだの一部として助け合う仲間であり続けたいと願います。(ピリピ3:13) その時、まわりの人々は私たちが真にキリストの弟子であることを知るでしょう。だからこそ、互いを覚えて祈り合うことは欠かせません。祈っていること自体が主のわざですから。ぜひ、この働きのためにもお祈りください。人間的な努力ではなく主の思いでことがすすめられますようにと。


 パスターズ・カンファレンス報告
 「神との愛の交わりなくして、クリスチャンライフはあり得ない。」こんなごく当たり前のことを再確認させられて、感動しています。主は今年、私たちに一人ひとりに以下のことを求めています。主からのあなたへの語りかけとして祈ってみてください。
「一番のことを何としても一番とする」これは覚悟だけでなく、決心と行動が求められます。そして何よりもその「動機」が肝心です。動機は、「神を愛し、人を愛するから」ということです。言い換えれば、神に仕え、人に仕えるということは、御霊の自然な働きなのです。当然、これは肉の力ではできません。主から頂いた御霊をこころの中心にもって来ることこそが鍵となります。
    

 「一番のことを何としても一番とする」 
 毎日みことばを食べて主と交わる。単に今日の仕事や場面を乗り切るという視野だけでなく、そうして生きることが主にある新しいいのちだからです。満たされようが、満たされまいが・・一番のことを一番として主に仕えます。
 

    「一番のことを何としても一番とする」 
 日曜日以外の普通の日に家族以外の教会の人と一度以上は交わる。そのために時間を取れるようにくふうし努力する。これは人々のニーズに応えるためで、決して何かを得るためではありません。まず、交わることから始まります。互いに仕えることを実践して見えてくる視野が広がるからです。物理的に難しい時は、電話やメールの交流をもって互いのニーズに応えたり、関心を持って祈りましょう。
 これこそがキリストのからだなる教会に私たちが置かれた目的だからです。主はこれらの行い自体に関心があるのではなく、それをしている「私たち自身にこそ」関心があるのです。

「一番のことを何としても一番とする」
これを肉の私たちが自力で行おうと思うとそれは重荷となり、サタンの思いのツボにはめられることでしょう。主に仕え、人に仕える御霊を頂いたのですから、御霊をもってこれらのことを行うのです。これこそがクリスチャンの生き方のコツでしょう。御霊からのささやきに耳を傾けましょう。

 結構長い一日が終わって、夜8時半に集会が終わったら敷地内にあるコーヒーショップでおいしいコーヒーでもと思っていた時、進行役をしている牧師が、「みんなさあコーヒーでもと思ってるでしょうが、せっかく集まったのだからアフターグローで聖霊を待ち望む時を持ちませんか」と呼びかけがあって、残れる人だけで(と言っても4〜500人くらいはいました)、アフターグローの時をもちました。
 集会の後半には、半数以上の牧師が講壇の前の床のスペースにひれ伏して礼拝をしました。昔いた教会では日曜礼拝でもよく床に座ってひれ伏して礼拝しましたが、各地に遣わされている主任牧師たちが、せつにひれ伏して主と交わっている光景は、黙示録4章の天の礼拝の光景のようでした。マンモス教会の牧師も昨年始めた牧師も、何の違いもない遣わされた一人の神の僕として・・、主の前で礼拝を捧げています。何かを得ようというのではなく、ただ神が神だから・・。
 10時半に集会が終わって会場を出る時、一人の牧師が僕を追いかけてきました、連絡先を下さいと。彼に手を置いて祈った時、事情も知らずに癒しと励ましの祈りをしました。与えられたみことばも語りました。すると後でお嬢さんが白血病であることを聞かされ、驚きました。
 神様は私たち一人ひとりを通して励ましや癒し、預言や知恵のことばを与えます。毎日の生活の中でもこのように互いに仕え合うことはとてもとても大事です。自分の信仰が、経験が、歩みがどうこうではなく、ただ、神の前に体を差し出して人と真摯に触れ合う時に、「神が」ワザをするからです。癒したとか、預言したとかではなくて、今もイエスは人に触れ人を通してその愛のわざを続けているから、です。自分づくりとは別の話しです。
  そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。(ローマ 12:1)
 ここで言う礼拝とは毎日の生活をもって礼拝をしてることをいいます。あなた自身を見るのではなく、自分は、神が使いたいと言って神に選ばれた「ただの器」だと信じて神を礼拝しましょう。神は私たちが想像もつかない大いなるわざをすることでしょう。

 出エジプトをしたイスラエルは水がない、マナは飽きた、肉が食べたい・・と、言っては、モーセたちに詰め寄ります。しかし、神はそんな彼らを「この四十年の間、あなたの着物はすり切れず、あなたの足は、はれなかった。」とある通り、その必要を満たし導き恵みます。神は私たちに降りかかる試練を通して心のうちにあるものを明らかにされます。人生に起こっているすべてのことは神のワザを完成するために必要だったのです。試練からの脱出を祈るのはもちろんですが、その試練の背後におられる神と交わってみませんか。
  信仰とはどんな境遇の中にあっても主に信頼し、主のわざを受け取る姿です。(ピリピ4:12-131:6)                                          
 自分の努力や経験でできることなどが主のわざを行うのに何の役にもたたないのだというところまで、主は私たちを準備します。単に肉的な目に見えてる現象ではなく、信仰によって神のワザを受け取って行くことこそが大切だということを悟るまで私たちを準備してくれるのです。
 四十年後にヨシュアとカレブというニューリーダーのもとで、信仰の冒険は大きな一歩を踏み出します。まさしく神がおられる、神がわざをされているならと、自らの肉のわざを手放す時に、栄光は神に帰されるからです。マナはその日その日に与えられ、決して蓄えることができませんでした。明日になれば明日の分が与えられました。与えられるという現象が大切なのではなく与えてくださる神を信頼して今日を生きることが大事なのです。「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる。」とある通りです。
 


特別礼拝   ゲストスピーカー

2005  9月25日   Mike & Karen  Stangel

          (ノースショア・クリスチャンフェローシップ ハワイ オアフ島)

2005  11月6日  Bill & Denita  Stonebraker

                  (カルバリーチャペルホノルル)

2006  5月7日     Glenn & Rebecca  Cardonella

               (カリフォルニア  カルバリーチャペル・バイセリア) 

      マイク & カレン      ビル & デニータ             グレン & レベッカ


☆イースター           4月16

☆A家 オープンハウス      2月19日

6月 4日

新メンバーを迎えての歓迎会    5月28日


       講解説教   聖書箇所

   2005  12月11日 〜 2006  2月26日      第1・第2・第3  ヨハネの手紙

   2006  3月12日                       ユダの手紙

         3月26日 〜                    ヨハネの黙示録



   その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅 をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』
すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』                                                           マタイ25:37-40